登入商会を正式に立ち上げるには、ギルドへの登録が必要だった。
ルシェムには小さな商人組合がある。王都の商業ギルドほど権限は強くないが、商売を公式に行うには組合の認可証が必要だ。認可証がなければ、市場での販売は非公式扱いになり、いつでも排除される可能性がある。エリナはこの一ヶ月、その準備を進めていた。
問題は年齢だった。組合の規定では、商会の代表者は十五歳以上でなければならない。エリナはまだ七歳だ。どれだけ知識があっても、書類の上では子どもに過ぎない。
だから代表者が必要だった。ゴードン・ハースがルシェムに来たのは、春の終わりのことだった。
エリナが最初にその男を見たのは、市場の隅だった。くたびれた上着を着た壮年の男が、マルタの店の前で豆のペーストを手に取って、じっと見ていた。買う様子でも、立ち去る様子でもない。ただ、ラベルに書かれた文字を読んでいた。
エリナが近づいた。「どこか気になりますか」
男が顔を上げた。目が鋭い。でも敵意ではなく、分析する種類の鋭さだった。
「このラベルの書き方だ。内容量と価格と使用方法が整理されて書いてある。普通の行商人はここまで書かない」
「書いた方が売れるから書いてる」 「なぜ売れると思った?」 「買う人間は、知らないものにお金を出すのを怖がる。情報を先に渡せば怖くなくなる」男がエリナをまじまじと見た。
「あなたが作ってるのか」
「そうです」 「名前は」 「エリナ・アッシュフォード」男の目が、一瞬だけ変わった。アッシュフォードという名前に反応した。でも哀れみでも軽蔑でもない。何かを思い出した、という顔だ。
「……アッシュフォード侯爵の娘か」
「元侯爵の。今は平民です」 「お父上には、一度だけお会いしたことがある。優秀な方だった。改革案の数字を拝見したことがある。見事な論理だった」エリナは少し止まった。
「あなたは?」
「ゴードン・ハース。元は商人ギルドの会計士をしていた。今は——仕事を探している」話を聞くと、事情はわかった。
ゴードンは三年前、商人ギルドの内部不正を告発した。帳簿の改竄、税の横領、贈収賄。証拠を揃えて上に提出した。しかし上の人間が不正に加担していた。結果、ゴードンの方が「虚偽の告発をした」として解雇され、業界に居場所を失った。
エリナは話を聞きながら、帳簿を頭に思い浮かべた。「複式簿記を知ってますか」
ゴードンが目を丸くした。
「……知っている。というより、私が独自に考えていた手法に近いものだが。どこでその言葉を」
「同じものを考えていた。でも私は計算は得意でも、商業経験がない。経理と財務を任せられる人間が必要だった」 「まさか、子どもに仕事を提案されるとは思わなかった」 「年齢より中身で判断する方が合理的でしょう」ゴードンがしばらくエリナを見ていた。それから、小さく笑った。声に出さない、静かな笑い方だった。
「お父上に似てる」
エリナは何も言わなかった。でも胸の奥が、少し動いた。
「条件を聞こうか。話だけでも」
「商会の代表を務めてほしい。私はまだ十五歳になっていないので、書類の上での代表者が必要。実務の決定権は私が持つ。利益の二割をあなたに渡す。それに加えて、経理・財務の責任者として月給を別途払う」 「利益の二割は多すぎる」 「代表者のリスクに対する報酬。もしクロヴェル家から圧力がかかった時、矢面に立つのはあなたになる」ゴードンが少し顔を引き締めた。
「……クロヴェルが関係しているのか」
「父を陥れた家です。いずれぶつかる」沈黙があった。
ゴードンが立ち上がって、手を差し出した。「わかった。やってみよう」
エリナはその手を、両手で握った。
登録の日は、マリオも一緒に来た。ルシェムの商人組合は、市場の一角にある木造の建物だ。組合長はハロルドという五十代の男で、長年この町の商売を仕切ってきた。
ゴードンが書類を提出した。エリナが作成し、ゴードンが清書したものだ。商会名、代表者名、取り扱い品目、資本金の申告。 ハロルドが書類を読んだ。途中で眉を上げた。「品目がずいぶん多いな。食品加工、衛生用品、医療補助品、将来的には建材と運輸も、か」
「はい」とゴードンが答えた。「代表はあなただが、実質的な運営は?」
ハロルドの視線がエリナに向いた。子どもが一緒にいることを、最初から気にしていたのだろう。
エリナは前に出た。「私が担当します。エリナ・アッシュフォードと申します」
「アッシュフォード……」ハロルドが少し目を細めた。
「石鹸と薬草薬を作っていた子か。クラウスの足を治したという」
「はい」 「噂は聞いていた」ハロルドがしばらくエリナを見た。
「だが子どもに商会は早くないか」
「子どもだから早いのではなく、準備ができているかどうかだと思います。帳簿をご覧ください。この半年の収支と在庫、それから向こう半年の生産計画と売上予測を添付してあります」ハロルドが書類をめくった。
しばらく読んだ。ページをめくる手が、途中から少し遅くなった。数字を確認している。 やがて顔を上げた。「……この予測の根拠は」
「過去半年の実績データと、市場の需要傾向から計算しました。保守的に見積もっています。実際はこれより上振れる可能性が高い」 「なぜ保守的に」 「楽観的な予測は信用されないから。信用を得てから数字を上方修正する方が、関係者全員にとっていい」ハロルドが書類を机に置いた。組合長の目が、少し変わっていた。
「……認可しよう」
マリオが隣で小さく拳を握った。エリナは表情を変えなかった。でも足の指先に、少し力が入った。
組合を出たところで、マリオが声を上げた。「やったじゃないか!」
「まだ始まっただけ」 「素直に喜べよ」 「喜んでる」 「全然そう見えない」エリナは少し考えて、口の端を動かした。
「……嬉しい」
「それだけか!」ゴードンが後ろで静かに笑っていた。声に出さない、あの笑い方で。
エリナは認可証を受け取った。薄い紙に、組合の印が押してある。アッシュフォード商会、正式認可。 小さな紙だ。でもこれが、すべての始まりの証明になる。 その夜、全員が長屋に集まった。 エリナ、母のセレーナ、マリオ、ゴードン、それからルナ。 台所には入りきらないので、隣の部屋も使った。エリナが料理を作った。豆のスープ、焼いたパン、薬草を使った副菜。大した食材ではないが、手間をかけた。 食事が始まって、誰も特別なことは言わなかった。 でもマリオが食べながらぼそりと言った。「なんか、始まった感じがするな」
誰も否定しなかった。
セレーナがエリナの顔を見た。目が少し潤んでいた。エリナは気づかないふりをした。気づくと、自分まで変な顔になりそうだったから。 ルナが、珍しく自分からパンを一枚取った。いつもは促さないと食べない子だ。猫が一匹、どこからか入り込んで、ルナの膝の上に収まっていた。 ゴードンが帳簿を開いて、明日からの作業を確認し始めた。この男は祝いの場でも仕事をする。エリナは少し好ましいと思った。 「今くらい休めよ」とマリオが文句を言った。 「明日の準備が今日を決める」とゴードンが答えた。「エリナみたいなこと言う」
「優秀な人間は同じ結論に至る」エリナは何も言わずに、スープを飲んだ。
窓の外に夜が来ていた。ルシェムの町は静かだ。でもこの部屋だけは、人の気配があった。 チームができた。豆のペーストを一人で作っていた頃から、ここまで来た。
王都はまだ遠い。クロヴェル家はまだ巨大だ。父の名誉はまだ地に落ちたままだ。 でも今日、アッシュフォード商会が産声を上げた。 エリナは認可証を、夕食の間もずっと上着の内ポケットに入れたままにしていた。 取り出して確認する必要はなかった。ただ、そこにある重さを感じていたかった。 それだけのことだ——と思ったが、今日は「それだけのことだ」で片付けるのをやめた。嬉しい。素直に、嬉しい。
エリナ・アッシュフォード、七歳。商会の代表は、今日から名前だけゴードン・ハースだ。
でもいつか必ず、自分の名前で立つ。 アッシュフォードの名前で、この世界に刻む。 それが、始まりの誓いだった。四月になった。 春が本格的になった。 市場に花と野菜が並んだ。 フィオナの庭の薬草が、緑色を深くした。 農地の薬草が、二年目の芽を出し始めた。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 春の空気が入ってきた。 今年も、春が来た。 でも、今年の四月は、動きが重なった。 四月の最初の週に、フィオナが地方の学校に向けて出発した。 三カ所を順番に回る予定だった。 一カ所に、二日から三日滞在する。 全部で二週間ほどの旅だった。 出発の朝、フィオナが長屋に来た。「行ってくる」フィオナが言った。「行ってらっしゃい」エリナが言った。「気をつけて」「気をつける」フィオナが言った。「何かあれば、手紙を出す」「待っています」「ルシェムが、待っていてくれる」フィオナが言った。「それが、わかっているから、どこにでも行ける」「帰ってくる場所があるから、遠くに行ける」エリナが言った。「あなたの言葉だ」フィオナが笑った。「でも、今日は自分の言葉として使う」「そうしてください」 マリオが見送りに来た。「フィオナさん、行ってらっしゃい」マリオが言った。「ありがとう、マリオ」フィオナが言った。「ルシェムは、俺が守っておく」マリオが言った。「マリオが守っているなら、安心だ」フィオナが笑った。「いつも、そう言ってくれるから、どこにでも行ける」「それが俺の仕事だから」マリオが言った。 ルナが来た。「庭の薬草、水をやっておく」ルナが静かに言った。「ありがとう、ルナ」フィオナが言った。「帰ってきた時に、育っていると嬉しい」「育てておく」ルナが頷いた。「植物は、帰ってくる人を待っている」「その言葉が、好きだ」フィオナが言った。 フィオナの馬が動き出した。 エリナ、マリオ、ルナが見送
二月になった。 冬がまだ続いていた。 でも、日が少しずつ長くなってきた。 夕方、作業場の前に立つと、去年の今頃より少しだけ長く外が明るかった。 エリナは、その変化に気づいていた。 春が、近づいている。 毎年、同じように春が来た。 でも、毎年少し違う春だった。 今年の春は、父の名誉が回復された後の最初の春だった。 二月の初めに、レインから手紙が来た。エリナへ「届いた」という言葉を受け取った。「続けてきたことが、今日の形になった」という言葉も。俺も、同じことを感じた。遠くにいたが、届いた日のことは、ここにいてもわかった気がした。師匠に話したら、「そうか」と言った。それだけだったが、師匠の「そうか」は、受け取った、という意味だとわかっている。春になったら、行く。今年の春のルシェムを見たい。それと、個人的なことを一つ。師匠が今年の夏に退く方向で、学院と話し合いが進んでいる。師匠が退いた後、俺がどうするかを、少し考えている。まだ言葉にできない部分がある。でも、考えていることは確かだ。春に、話せると思う。レイン エリナはレインの手紙を読んで、「春に、話せると思う」という一行を少しだけ見た。 言葉にできない部分がある。でも、考えている。 以前、レインが同じようなことを言った時、大事なことが言葉になる前だった。 春に来る。そして、話す。『レインへ「届いた日のことは、ここにいてもわかった気がした」という言葉を受け取りました。遠くにいても、繋がっているということですね。それが、続けてきたことの形だと思います。師匠のことを受け取りました。師匠が退いた後のことを、春に話してください。聞きます。春のルシェムを、見てほしいと思っています。今年の春は、少し違う春かもしれません。父の名誉が回復された後の最初の春だから。待っています。
一月になった。 新しい年が来た。 ルシェムの元旦は、今年も静かだった。 市場が休んだ。道を歩く人が少なかった。 エリナは朝、台所の窓を開けた。 冷たい空気が入ってきた。 霜が降りていた。 今年も、同じ朝から始まった。 元旦の朝、台所に行くと、蜂蜜のパンが置いてあった。 八年連続だった。「また蜂蜜のパンですね」エリナが言った。「毎年同じの方がいい」セレーナが言った。「始まりには、同じものがいい」「来年も、同じですか」「来年も同じにする」セレーナが穏やかに言った。「それが、続けることだから」 エリナは蜂蜜のパンを食べた。 甘かった。 八年間、変わらない甘さだった。 変わらない甘さが、続いてきたことの味だった。 マリオが来た。「おめでとう、新年だな」「おめでとうございます」「毎年言っているな」マリオが笑った。「毎年言ってくれますね」「来年も言う」「わかっています」 マリオが少しだけ、エリナを見た。「今年は、どんな年になると思う」「わかりません」エリナが言った。「でも、続けることは変わりません」「それだけで十分だな」マリオが頷いた。「続ければ、何かになる。それが、これまでそうだったから」「そうですね」「お前と一緒にいて、一番覚えた言葉だ」マリオが言った。「急がない。でも、止まらない」「マリオが、その言葉を使えるようになりましたね」「お前から学んだ」マリオが言った。「七年間で、一番大事な言葉を学んだ」 一月の第二週に、レインから年始の手紙が来た。エリナへ新年になった。今年も、手紙を書く。今年の冬に、また霜の石畳を一緒に歩く。それが、今年の始まりに確かなことだ。一つだけ、届けたいことがある
十二月になった。 冬が本格的になった。 ルシェムの霜が、厚くなった。 朝、窓を開けると、白い息が出た。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 今日の空気を確認した。 今日も、冬の空気だった。 それが、当たり前になっていた。 当たり前になったことが、続いていることだと、今は知っていた。 レインが学院に帰って、一週間が経っていた。 手紙が届いた。 エリナへ 帰ってきた。 学院の石畳は、今日も霜が降りていた。朝、歩きながら、今年もエリナと一緒に歩いた、と思った。 それが、今年の霜の石畳の重みだと思う。来年も、一緒に歩く。その積み重ねが、続くことだと思っている。 一つだけ、今日感じたことを届けたい。 図書室に行った。いつもの席に座った。光がいつも通り入ってきた。でも、少し違った。 なぜ違うかを考えた。 エリナが、この光を見たから、かもしれない。一緒に見たから、自分一人で見る時も、一緒に見ている感じがする。 それが、続けることで起きることだと思う。 手紙を書く。 ――レイン―― エリナはレインの手紙を読んで、少しだけ目を閉じた。 一緒に見たから、自分一人で見る時も、一緒に見ている感じがする。 それが、続けることで起きること。 開けた。 レインへ「一緒に見たから、一人で見る時も一緒に見ている感じがする」という言葉を受け取りました。 私も、同じです。今朝、ルシェムの霜を見た時、学院の石畳を思い出しました。一緒に歩いたから、一人で見る霜の中に、あなたがいます。 それが、続けることで起きることですね。 来年の冬も、一緒に歩きます。約束しました。それが、今から楽しみです。 農地の年末報告を、来週ベルトとルナがまとめます。来年の計画が、少し見えてきそうです。
十一月になった。 冬が近づいていた。 朝の霜が、また降り始めた。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 今日の空気を確認した。 霜が降りていた。 薄い霜だった。 でも、毎年少しずつ厚くなっていく。 それが、冬の始まりの形だった。 霜を見るたびに、学院の石畳を思い出した。 今年も、その季節が来た。 十一月の初め、レインから手紙が来た。 エリナへ 今月の終わりか、来月の初めに行く。 今年も、霜の石畳を一緒に見たい。 学院の霜が、今年も降り始めた。朝、図書室に向かう廊下を歩きながら、今年もエリナが来ると思った。 それだけで、少し違う朝になった。 待っていてくれるか。 ――レイン―― エリナはレインの手紙を読んで、「それだけで、少し違う朝になった」という一行を少しだけ見た。 来ると思っただけで、朝が違う。 自分も、同じだった。 レインが来る時期が近づくと、朝の空気が少し違う感じがする。 レインへ 来月、来てください。待っています。今年も、一緒に霜の石畳を歩きたいです。「来ると思っただけで、少し違う朝になった」という言葉を受け取りました。私も、同じです。あなたが来る時 期が近づくと、いつもと少し違う感じがします。 農地の件、ベルトとルナが腐葉土を混ぜる試みを続けています。来月の報告書を、一緒に持っていきます。 ――エリナ―― 十一月の半ばに、ダリウスから手紙が来た。 エリナ・アッシュフォード殿へ 名誉回復の審議について、大きな進展があった。 先月、証言者が委員会で正式に証言した。アッシュフォード侯爵の改革案は、当時から正しい方向だったという内容だった。委員会は、その証言を正式な記録として採択した。 決定には、もう少し時間がかかる。でも、方向は決ま
九月になった。 秋が来た。 朝の空気が、夏とははっきり違う冷たさを持ち始めた。 エリナは毎朝、台所の窓を開けた。 今日の空気を確認した。 今日は、秋の空気だった。 窓を開けるたびに、今日の変化を感じる習慣は、何年も続いていた。 変わらない習慣の中に、毎日少しずつ違う空気があった。 それが、続けることの形だと思っていた。 九月の最初の週、フィオナが長屋に来た。「一つ、伝えたいことがある」「どうぞ」「ダリウスから連絡が来た」「どんな内容ですか?」「父の名誉回復の審議について、進展があった。審議委員会が、アッシュフォード侯爵の件を正式に議題として取り上げた。次の会合で、具体的な審議に入るとのこと」 エリナは少しだけ止まった。 正式に議題として取り上げられた。「ダリウスが、教えてくれたんですね」「そう。定期報告の中に、この話が入っていた。重要だと思って、すぐに来た」「ありがとうございます」「礼はいらない。でも、一つだけ聞いていい?」「どうぞ」「どんな気持ち?」 エリナは少し考えた。「静かな気持ちです」「静か、というのは?」「大きな感情が来ると思っていた。でも、来なかった。静かだった。谁かがそうでした。当然のことが形になった、という感じがします」「当然のことが、形になってきた、か」「父が正しかったことは、もうわかっている。だから、名誉が回復されることは、当然のことだと思っています。でも、それが形になるまでに、時間がかかった。やっと、時間が追いついてきた」「時間が追いついてきた。それが、正確な言い方かもしれない」 セレーナに伝えた。「お母さん、また一つ、動きました」「名誉回復の件?」「はい。正式に議題として取り上げられました」 セレーナが手を止めた。 少しだけ、窓の外を見た。「そうかぁ」 セレー